2012年9月20日木曜日

「出生前診断」への経済社会学の視座


 2012916日,NHKは「出生前診断そのとき夫婦は」を放送した。出生前診断とは,ダウン症,二分脊椎症,無脳症の可能性が高い胎児を中絶する選択を可能にする技術である。この検査技術が広まる中で,われわれは,その社会的意味を考えなければならない。 

 障害者の立場からは,障害のリスクを抱えた胎児を中絶することは,今,生きている障害者の存在を否定することであり,同時に,障害者とその家族をひどく傷つけることである。この程度のことは,少し考えれば誰にでも分かるだろう。

 だが,現実には,障害者を抱える家族は「幸せになれない」かもしれない。だから,出生前診断によって,障害のリスクを抱える胎児を中絶することが「無難な選択」であり,スウェーデン,イギリス,アメリカ,フランスなどでは,それが「常識」となっている。こうした文脈で,障害者をもった胎児を「中絶」するのか,それとも「産み育てる決断」をするのか,という「生命の選別(優生学)」の是非が,われわれの日本社会にも問われている。

 現実的な問題として,この出生前診断をめぐる問題は「子どもの生命」と「家族の幸せ?」を天秤にかけることにみえる。これにたいして,NHKは「家族の結束(絆)」の行方に,その決断をゆだねる格好で番組を締めくくっていた。おそらくNHKとしては,「生命の選別」という倫理的問題は,それぞれの「家族の判断」だと,この問いそのものを投げ返すしかなかったのであろう。

 ここで経済社会学の立場から指摘しなければならないことは,「そもそも障害者が経済社会のお荷物であり,役に立たない,周囲を不幸にする」と思われている現実,つまり,障害者への偏見や差別をめぐる経済社会の有様そのものを問うことである。ましてや,障害(疾病)の可能性が高い胎児を殺すことが,国家権力によって推奨されたり,強制されることほど危険な発想はない。

 

 障害者と要介護高齢者

 この場では,別の視点から問題提起を行っておきたい。
 身近な問題として,要介護高齢者もまた「中途障害者」である。そこから次の3つの疑問が生じる。

 (1)「なぜ,障害者を介護,看護する家族は,経済社会にたいして“負い目”を感じ,高齢者を介護する家族は“賞賛”されるのか。」

 (2)「なぜ,高齢者に,介護保険と公的資金から9兆円を超える給付を提供しなければならないのか。」

 (3)「なぜ,障害者の利益を代表する集団は,介護保険制度の改善を通じて,要介護高齢者と障害者にとって平等・公平な社会制度を求めないのか」

 これら3つの疑問にたいして,さまざまな返答があるであろう。

 私は,とくに3番目の問題を考えることが,経済社会学にとって大きな課題だと考えている。障害者と要介護高齢者,健康に恵まれた人びとの間の壁,とくに障害者を守り育もうとする人びとが,特別な地位に固執してはいないであろうか。障害者問題を論じる人びとは,障害者の利益代表であることをはばからない。「障害者と健常者は,違う世界に生きているのだ」と障害児を育てるある研究者が言っていた。

 そうではなくて,障害者がおかれている問題と要介護高齢者への社会給付,そして,出生前診断に織り込まれる「優生学」(生命の選別)を「連続した地平」から考えなけれならない。そこから,われわれは経済社会の本質と新たな秩序の可能性を考えなければならないのではないだろうか。 
 障害者のサイドに立つ人びとには,福祉制度で手に入れた「既得権に固執する」のではなく,経済社会の全体の中で自らの存在意義と貢献を考えていただきたい。同時に「知的障害」「精神障害」「身体障害」の間にある壁と「誤解と蔑視の相互性」を乗り越えて,「連続した地平」から「視界の相互性」を追求する視座に立たねばならない。

 そのためには,まず,介護保険制度が,要介護高齢者のためだけにあることの問題から考え始めてはいかがであろうか。

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