2013年8月1日木曜日

「キューポラのある街」(1962年:浦山桐郎監督,吉永小百合)

 2013730日,インターネットで偶然,この映画と再会した。
 名作「キューポラのある街」は,鋳物工場の街を舞台に,貧しい鋳物職人の長女,ジュン(中学3年生:吉永小百合)を主人公として,彼女の県立高校進学への憧れと現実の生活困難を描いている。ジュンの弟と朝鮮人の友達の悪ふざけ,「牛乳泥棒のシーン」でも,貧しい者同士の悲哀が描かれ,この時代に生まれ育った1人としてほろ苦い懐かしさを感じる。さて,ここでは久しぶりに「キューポラのある街」を観ながら,21世紀の今の時代に,私が改めて考えさせられたことを綴ってみたい。
 映画が公開された1962年に,私は生まれ,高度経済成長の時期を通じて育ってきた。だから,ここに描かれている出来事や生活感は,自分自身の体験とも重なっている。この貧しい時代を子どもの頃に多少とも経験したので,映画の生活風景には懐かしさを覚えるわけである。同時に,ここに描かれている生活から育まれた,当時の人間観,社会観についても,身体の芯の部分でその切なさを感じとれる気がする。
 主人公の父親は「古いタイプの職人」であったが,古い鋳物工場の淘汰と共に失業し,酒とバクチで堕落する。しかし,映画の終盤では,労働組合の支援により「金属労働者の1人」として再就職がかなうことになる。こうした浮き沈みの変化が避けられない時代であったし,それは「近代化・産業化の理(ことわり)」でもある。
 そして,「キューポラのある街」は,近代化・産業化の進展にともなう厳しい生活の変化と,お互いに助け合い,支えあうための労働組合の大切さを伝えている。労働組合の目的は,同じ立場の者同士が協力して,とくに雇主との鍔迫り合いのなかで,「自分たちの仕事と生活を守るための『正義』を権利として獲得すること」にある。
 つまり,この映画には,労働者の仕事と生活を守るために組合に参加することの意味。それこそが「働く仲間の社会的前進」に結びつくという思想が根底に据えられている。しかし,現実には,労働者の間にも「厳しい競争」がある。高度な技術,高い能力を身につけることで,安定した地位と,より高い所得を獲得すること,「個人的な利益」を追求することも生きるための「したたかな戦略」である。だから,労働者にとって,同じ境遇の「仲間との連帯,助け合い」と,自らの「個人的な利益」のどちらを優先するかは重要な人生選択となる。通常は,仲間を配慮するような余裕はなく,自分のことで精一杯の労働に疲れ果てるケースの方が多い。ましてや,いつの時代の若者にとっても,まずは自分自身の才能と可能性を試したいと考えて,より高い能力の獲得(県立高校)へと突っ走るのが自然であろう。
 しかし,「キューポラのある街」の結論部分では,こうした葛藤には触れることはなく,主人公は中学を卒業後には「紡績工場への就職」を決意する。このとき,彼女は担任教師の励ましの言葉を唱えている。
 「1人が5歩前進するよりも,10人が1歩ずつ前進する方がいい」,つまり,紡績工場で多くの女工たちと一緒に働き,夜間高校に通い,「仲間」と歩む決意がここに込められている。こうした1960年代の世相が作り上げた,この映画そのものが,大衆的な理想像となったのである。そして,ここから,この映画が1970年代までの労働組合運動,社会運動のプロバガンダとされてきた意味も分かる。

 だが,現実の市場経済では,その「正反対の力学」が作用してきた。つまり,世間一般には「1人が5歩前進する」ことが目指されてきた。これを良心的に解釈するならば,「未来の10人の生活を改善するために」,自らが1人の優れた人材として成功することの方が「確実で,現実的だ」という感覚であり,その根底には,「故郷に錦を飾る」という日本人的な野心もあるだろう。
 例えば,家族の中から出世頭を育てることができれば,家族全体がその恩恵に預かることができるかもしれない。そして,日本では,高度経済成長期を通じて「学歴社会」が形成されてきた。もちろん,大学卒業の学歴を得たところで,必ずしも「成功」とはいえないが,せめて自分の子どもや孫の世代には,より豊かになるチャンスが生まれるかもしれない。そうした淡い期待を背景に,学歴社会をめぐる受験競争が広がってきたのではないだろうか。
 「キューポラのある街」ではこのような展開は描かれてはいないが,1970年代から80年代には,「学歴格差」が「経済格差」として観察されてくる。「製造業を支える労働者」と,「営業職,管理職の椅子に座る大学卒」との経済格差が実感される中で,高等教育の内容も「工業科,商業科」などの専門職教育から「普通科」への転換が急速に進んできた。
 少し結論を急ぐことになるが,21世紀初頭に,約半数の若者が大学に進学する時代となると,もはや大学卒の学歴は,労働市場での優位性を証明することに役立たなくなった。「こんなはずではなかった,何のために高い学費を払ってきたのだ」という親子共々の挫折,落胆,失望が広がりつつある時代になってしまったのである。ちなみに,2012年の大卒,559千人のうち就職も進学もしていない若者は86千人にのぼる。
 かかる意味合いを考えつつ,再び「キューポラのある街」のメッセージを思い出したい。
 「1人が5歩前進するよりも,10人が1歩ずつ前進する方がいい」
「豊かさ」とは何かを見つめ直しながら,この言葉の意味を今一度考えてみる必要があるのではないだろうか。